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C 軍事国家
軍事国家の出現 通説では、英国の経済発展は、「最小限の国家介入と自由放任」により、「大陸型の絶対主義」を避けることによって成し遂げられたとみるが、「十分に再編成された財政的・軍事的機構、重い課税、専門的官僚を備えた新しい種類のイギリス国家の出現」によって、「18世紀にブリテンは主要な軍事国家となり、広大な帝国を獲得し、世界貿易の多くの部門を支配していた」(パット・ハドソン『産業革命』78頁)とみることができる。自由主義段階という概念は、植民地と軍事国家の観点から存在根拠はないといってよいのである。軍事国家の側面をもう少し検討してみよう。
E ・J ・ホブズボーム(Industry and Empire: An Economic History of Britain
since 1750, Weidenfeld and Nicolson, 1968[浜林正夫・神武庸四郎・和田一夫訳『産業と帝国』未來社、1984年])によれば、イギリス綿製品が製造され輸出できたのは「
原料と市場の政治的・軍事的支配、即ち、植民地化と軍事的征服に裏付けられたから」であり、「1700年までに輸入禁止令をもって国内市場から優勢なインド製品を締め出し、逆に国外市場においては、工業化を阻まれたインド亜大陸をランカシャー製品が席捲して
19世紀初頭には完全支配下に置」けたからである(西山俊彦「近代資本主義の成立と奴隷貿易C」[『福音と社会』213号、2004年6月、カトリック社会問題研究所])。
こうして英国国家は、「国内での資本形成水準をはるかに越える国家支出の増大をもって、経済における最も大きな単一の行為者」となり、「あらゆる身分の人々に影響を及ぼすようになった」。「国家の短期借入れと戦争の遂行とが、実質的には、18世紀における財政危機と貿易不振との全面的な原因となってい」て、「租税は、たぶんオランダのみを例外として、ヨーロッパの他の地域よりも高い水準にまで上昇し」、こうした「財政・軍事国家」の出現は、「イギリスの統治における最も重要な転換を画するもの」であった(パット・ハドソン『産業革命』78頁)。
英国は、18世紀、「国家権力は、地主階級の成員に収入と官職とを与えた恩恵授与制度によって弱められ」、「国内の経済的規制も衰え」たが、「海外での軍事的膨張主義は性質が異な」り、軍事借入も「国内経済と社会的・政治的活動に大きな影響を及ぼした」(パット・ハドソン『産業革命』79頁)。
戦時財政 こうした軍事国家を支えた国家財政を瞥見してみよう。
租税は、1660年から1815年までの間に「実質単位で18倍に増加し」、国民所得に占める租税割合は9%(18世紀初頭)から18%(1815年)に上昇した。しかし、「戦時歳入の必要の大部分」は、租税ではなく、ロンドン市場で「イングランド銀行の役割、及び大蔵省と主導的なロンドン金融業者との緊密な協力」によって、当初は「おもにオランダ投資家」や後に「首都と南部のイギリス人投資家」から公債で調達した。「戦時赤字財政で累積した国債への利払いは、平和時に政府歳入の40%〜50%を吸収」し、「税収入の大部分は公債所有者に移行」し、かくして「政府の租税調達能力が、国債とそれから生ずるすべての事柄との礎石」だった(パット・ハドソン『産業革命』79−80頁)。公債の信用は租税によって支えられていたからである。
ここに、この時期の租税調達能力が重要となり、これが「イギリスを同時代の国々よりも際立たせた」のである。イギリスの税負担はフランスよりも重く、「課税は国民所得よりも3−4倍速く増大」した。この租税徴収は、@「議会の合意により、政府の賦課は合法性を与えられ、院外団の形成により、国家の役割は制限を受け」、「国家の諸制度はより公共的となり、弁明する義務を負うようにな」り、A「法体系に不公平を組み込んでいなかったから」、「イギリスのシステムは他の諸国のそれよりも、いっそう公正」であり、「行政は中央集権化され、個々人に対する法的(課税)免除はな」く、B徴税請負制度は廃止され「すぐれて専門的な政府役人の組織体」によって「効率的に徴収され運営され」、C「役人の仕事は、先進経済に特徴的な商業・輸送・金融のインフラストラクチュアの存在により手助けされ」、D「国家の財政操作は、課税が直接的ではなくむしろ間接的であったことにより、たやすく容認され」、増税に耐えることができた(パット・ハドソン『産業革命』80頁)。国民に増税を課す効率的・「民主的」租税制度を作り出したのである。
直接税は、18世紀に「40%以上から約20%に下落」したが、1790年代以降「所得税の導入」で直接税が再上昇し、1810年には約34%に増加した。関税は、「当該期を通じて収入の3分の1以下」となり、「18世紀中頃の数十年間には5分の1」まで減少し、この結果、「18世紀における税負担の増大を最も支えたのは、内国消費税(国内で産出された商品・サービスへの税)」となった。「資産所有者への有効な租税は、当該期を通じて存在」せず、「地租は改正されないまま存続し、地価が上昇していた諸地域(北部・西部)に対してはきわめて軽く」、「貴族と地主は、地租の再評価と所得税の導入とに抵抗し」たし、地主・貴族は「地租負担を、借地農に、さらに借地農を通じて農業労働者に転嫁」したから、租税総額に占める地主・貴族の地租負担の割合は、「18世紀のほぼ全期間を通じて下落」した(パット・ハドソン『産業革命』80−2頁)。
戦争の経済効果 イギリスは、国家財政に支えられた軍事力によっていくつもの戦争を遂行し、経済成長に寄与し、特に奴隷、植民地の獲得・拡大の基盤ともいうべき海運、造船を整えた。
1692年から1802年まで、イギリスは、「75年間も海外や海上での主要な軍事行動に関わ」り、「戦争は、とりわけ沿岸輸送と労働・資本市場とを混乱させたり、多くの消費財価格を購買させるという影響をもたらした」が、「18世紀の戦争は結局のところ、資本財と軍需品への需要を創出することにより、経済全体にわたって乗数効果をもたらし」、「馬の飼育、穀物・食糧、帆、綱、大砲、鉄砲」のみならず「鉄の製錬、石炭採掘、建築、エンジニアリング産業」を鼓舞した。「戦争は、金属需要を増大し、金属輸入を増大し、金属輸入を困難にし、材木価格を引き上げることによって、製錬に石炭を用いる方法の探求を促すように費用と利潤とを変動させた」(パット・ハドソン『産業革命』84頁)。
オーストラリア継承戦争は、「コークスによる製錬技法の改良を鼓舞して、鉄生産における転換点をなし」、「この改良により、国産鉱石は棒鉄だけでなく銑鉄にも用いられ事が可能にな」り、釘製造業が促進された。七年戦争も「同じような劇的な効果をもたらし」、「鉄製軌条の導入と著しい鉄輸出」が開始され、戦時需要の激増で1790年カイファースファ製鉄所でヘンリー・コートの攪拌・圧延法が完成された。戦時に炭鉱業も鼓舞され、「銅と石炭を深層で採鉱する」ために蒸気水揚げポンプが設置された(パット・ハドソン『産業革命』84頁)。
多くの消費財産業の成長率は、「おそらく平和時における方が急速」だったが、「毛・絹・亜麻・木綿、ガラス・陶器類・金物類のような諸部門は、戦争からプラスの効果を受けた」。七年戦争時には、軍服需要に基づく、「国内雇用と消費購買力との増大から影響を受け」、「飛杼が綿織物工業に導入された」(パット・ハドソン『産業革命』84−5頁)。
「戦争が起こると、輸出の勢いはたいてい当初は衰えた」が、「安定した利得と戦後の好景気とが訪れて、輸出は戦前よりも高い水準に落ち着」き、「相当な永続的収益が、とくにフランスを犠牲にして生み出され」、「再輸出貿易を実質的に独占」し「遠隔地とヨーロッパとの市場に確実に接近」した。これによって、「海運業と造船は目ざましい拡大を示」し、「18世紀末までにイギリス商船隊は、間近の競争国フランスよりも数倍大きくなった」(パット・ハドソン『産業革命』85頁)。
戦時の資本市場を見ると、@「1763年以前の囲い込み法とターンパイク法についての研究」によれば「戦時における資本の流用は、国内の非軍事的(経済)活動を縮小」せず、建築はロンドン以外の地方都市(リヴァプール、ブリストル、バーミンガム)では「著しく増大し」、ロンドン以外では「生産の拡大・農業改良・運河建設に投資され」、A資本家は国債投資せず、「民間の資本形成は、政府支出と同時に増大」した可能性があり、「イギリスは国内投資をほとんど混乱させることなく、18世紀の戦争を戦うことができた」のである(パット・ハドソン『産業革命』85頁)。
イギリスでは「兵士と動員のほとんどは、不完全雇用と失業が著しかった地域から得られたので、雇用への純粋な追加」となり、こうして「古典的産業革命において実を結んだ『ダイナミックで歴史的な費用削減』が導き出され」、18世紀戦争が英国に経済的利益を与えた(パット・ハドソン『産業革命』86頁)。
戦争と金融業者の成長 当時「財政・軍事国家は、地主階級を窮地に追いやり」、「投資家・請負人・送金人として政府と取引することによって富を得」て、「成り上がり金融業者という新しい階級を創出し、一般消費者に重い税負担を課したので、この国の社会的諸勢力の均衡は改められ」、こうした「金融階級の興隆」が「18世紀初頭における社会的動揺のもっとも大きな原因」となった(パット・ハドソン『産業革命』90−1頁)。
「地主階級と金融階級との対立は、地主階級が就ける官職(文官と武官)の数を増やす事によりやわらげられ」、「国家の財政・軍事活動に対する貴族の忠誠心が固められた」(パット・ハドソン『産業革命』91頁)。
フランス植民地化の遅れ フランスの 「植民地帝国としての歴史は16世紀にまで遡」り、「いったんはイギリスとの覇権争いに敗れて広大な植民地を手放した」が、1830年のアリジェリア侵攻以降、「とりわけ第三共和制のもとで、新たな植民地帝国の形成を進展させ」、両大戦期間に「最大領域を実現」した(佐藤彰一、中野隆生編『フランス史研究入門』山川出版社、2011年、13−4頁)。
「国民国家である事と植民地帝国である事」とは矛盾するかであるが、、@「第三共和制下における植民地帝国の建設は、フランス革命の理念の刺激を得て強力に展開したとさえ語られ」、A「他方、フランスの支配・統治によって植民地の人びとや社会は変容を強いられたが、同時に、フランス本国も植民地の存在ゆえに変わらざるを得」ず、「両者の補完的な関係を踏まえながら、フランス植民地帝国の重層的統治構造を照射する作業を進め、また、植民地の多様な居住者が帝国のなかでどのような地位を得ていたのかといった問いに立ち向かいつづけなければならない」(佐藤彰一、中野隆生編『フランス史研究入門』山川出版社、2011年、14頁)とされ、共和制と植民地主義は矛盾無く連関したのである。この事は、上述のように、アメリカにおける「共和制と植民地主義・侵略主義」との連関からも確認される。
植民地の疲弊 エリック・ミランには、中国・インドは植民地収奪で衰退したとはみていない。
即ち、ミランは、「中世の中国はかなりの経済的前進を経験し」(Hall and
M.Mann(eds.) .Europe and the Rise of Capitalism.Basil Blackwell,New York,1988,p.22)、「あらゆる点でヨーロッパを凌駕していた」とみる。つまり、@「1160年に発行された紙幣(会子)の使用、書面による契約、商業信用、小切手、約束手形、為替手形など、中国の経済が高度に貨幣経済化していたのはまちがいな」く、A「軍事的に言っても、中国の皇帝は、ユーラシア大陸全体において、おそらく、もっとも強力な領主」であり、「12世紀において、中国の皇帝は、100万人に近い規模の兵力を難なく動員することができた」(エリック・ミラン『資本主義の起源と『西洋の勃興』86頁)のである。
「中国は中世において世界でもっとも豊かな国であるとみなされていた」にも拘わらず、中国が資本主義を産み出せなかったのはなぜか。エリックは、「中国の帝国にとって、西ヨーロッパがそうしたのと同じような仕方での周辺の征服、支配、および体系的搾取によって発展(社会経済的、軍事的などなどの意味で)することは不可能だったのか、それともあえてそうしなかったのか」(エリック・ミラン『資本主義の起源と『西洋の勃興』86頁)と問題提起した。はっきりしていることは、貧しいヨーロッパが外国を侵略し植民地にしなければ存続できなかったのだが、「豊か」な中華帝国にとって、周辺諸国を植民地支配して収奪する必要などなかったのである。ヨーロッパの資本主義は、奴隷制、植民地と言う他国の犠牲のうえに実現できたが、アジアでは奴隷制、植民地など必要なかったのである。
D ブリテン諸島の諸支配
@ ブリテン諸島の多様性
イングランドは、ウェールズ、スコットランド、アイルランドの植民地支配を通して、すでに国王・国家が存在する場合の植民地化を学習しつつ、国王・国家がほとんど無いか、脆弱な場合の植民地化をも習得していったのである。
(a) アイルランドの「植民地」支配
1707年合同法 1707年に「イングランドとスコットランドが合同した直後、『ブリテンらしさ』という考えが公にされ、新たに創出された国家に忠誠心が向かう的を提供できそうな、包括的な国民的アイデンティティを具現化した」が、イングランドの「大臣や政治家」はこのアイデンティティ取り組みに興味はなく、「アイルランドとスコットランドの社会的・文化的エリートは個別の国民的アイデンティティという心象に回帰したり、それを復活させたりした」(デイヴィッド・ヘイトン「競合する王国」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、78−9頁)。
しかし、ブリテンは、スペインに宣戦布告(1739年)したり、オーストリア継承戦争(1740−48年)に巻き込まれ、対外政策に失敗して、「庶民院の信頼を喪失」して、1742年にウォルポール首相(1721−42年)は退陣した(デイヴィッド・ヘイトン「競合する王国」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、80頁)。
18世紀に、グレート・ブリテンがヨーロッパ列強として登場し、海外貿易を積極化したため、「最も重要」な問題として、「通商に関わる勢力を懐柔する必要」(デイヴィッド・ヘイトン「競合する王国」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、83頁)が生じた。
アイルランド人は未開人扱い 1600年、アイルランドの森林はイングランドに木材を供給し、かつその木材で鉄工業がおきたが、百年後に森林が欠乏し、鉄工業は消滅した。そこで、アイルランドは、肉に対する「イングランド諸都市の需要」が高まって、牧畜に重点化して、ウェールズ、スコットランドの家畜補給と差別化して、「牛・豚の塩漬け肉および樽入りのバター」を輸出した(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、491頁)。
1780年代、ロシア、「アメリカ大陸のイギリス植民地」の塩漬け肉が入ってくると、アイルランドの地主は家畜「飼い葉」を栽培していた「肥沃な土地」を小麦栽培に転換し、1789年アイルランド人は今度は小麦をイングランドに輸出した(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、492頁)。
アイルランド人は「運河を掘ったりロンドンや他の発展しつつある都市の建設に関する労役」に従事し、1829年、「アイルランドのカトリック教徒の解放者」ダニエル・オコンネルは、「アイルランド人は『白く塗られた黒人』として扱われてきた」と指摘した(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、178頁)。
しかし、「アイルランド人やスコットランドのハイランド人」は、「土着のアメリカ人あるいはアフリカ人」とは違って、海外では「ブリテンの支配体制下にある兵士のように、海外における帝国の事業に対して積極的に参加」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、178頁)した。アイルランド人は、本国ではイングランドに植民地奴隷のように扱われたが、海外植民地ではイングランド植民地支配に積極的に加担したのである。
アイルランドの地主 「アイルランドは、家畜や酪農製品、そして、穀物をブリテンへと送る重要な移出元であ」り、@「穀物法によって課された外国産穀物への輸入関税は、アイルランドには適用されなかった」事、A「借地人は・・小区画の見返りに地代としての労働を行う形態であるカネイカ(小作地を一作の間転貸する事)を基礎にして、安価で豊富な労働力を得た」事から、1790年代中葉に「アイルランドは、ブリテンの穀物輸出入のうち約17%を供給しており、ナポレオン戦争末期に57%へと上昇し、1830年代半ばには驚くべきことに80%になった」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、189頁)。
アイルランドの地主は、スコットランドと異なり、「農村社会を変革しなかった」のであり、その結果、アイルランド農村は、@「農場はあまりに小さく、農村の人口はあまりに多かったので、彼らにできることはほとんど無かった」事、A「彼らはたいてい負債があまりに重かったために、農場の再編成のための費用を工面することはできなかった」事、B「地主と借地人の間の関係は、『ホワイトボーイズ』による反抗の勃発とその後継者たちによって19世紀の土地戦争へと続く、あまりにも多くの疑念と敵意で満ち溢れ」た事となった。ここに、地主と借地人の双方に「投資の不足」が生じ、「地主は、より高い生産性よりも高い地代を求める方に向かった」ので「田舎では根本的な変化は生じなかった」のである(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、190−1頁)。
しかし、アイルランドで「ジャガイモ飢饉の恐怖が、労働集約的耕作の仕組み全体を破砕した時」に、「アイルランドの農村における根本的な変化がついに到来」した(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、191頁)。
アイルランドのイングランド依存 「アイルランド王国は、交易相手としてのブリテンにより一層依存するようにな」り、1780年輸出の79%、輸入の74%がブリテンであり、これに対して、アイルランド議会は「より大きな範囲での自給自足の促進を試み」、1798年には反乱を起こして、「ロンドンの当局に重大な懸念を抱かせた」のである(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、196−7頁)。
1800年、「ブリテンとアイルランドの間のすべての関税を撤廃」するべく、合同が提案されると、「アイルランドの製造業者と熟練労働者を憤激させ」、「ブリテンの製造業者への輸入関税の維持を願っていた」。しかし、「アイルランドの賦課金には、ダブリンからロンドンへの歳入移転を保持することが仕組まれてい」て、「アイルランドの負債は急速に増加し、アイルランドを破滅寸前の状態」にした(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、197頁)。
アイルランド自治 1780−1830年には、アイルランドが「もっとも激変」(川北稔「二重革命の時代」[村岡健次ら編『イギリス史』3、近現代、山川出版社、1991年、66頁])した。
アメリカ独立戦争前、「アメリカには既にアイルランド系移民もいたし、住民の同意なしに課税され、毛織物の輸出禁止など本国の重商主義政策によって、自由な経済活動を抑圧されているという点では、二つの植民地になんの差異もなかったから、アイルランド人の間にはアメリカ植民地人への共感が強かった」(川北稔「二重革命の時代」前掲書、66頁)。
当時のアイルランドは、@「『プロテスタント優位体制』のもと、17世紀以降にやってきたイギリス系プロテスタント地主の支配が行われており、要職は彼らによって独占されて」、A「カトリック教徒がプロテスタントから土地を得ることは、方法の如何を問わず禁止され」、B「彼らプロテスタント地主の多くは不在化してイギリスに在住し、農業改良はもとより、現地の民生の問題はほとんど意に介さなかったので、土地は疲弊し」、1800年で総人口450万人中「原住ケルト系農民」と「早期渡来のオールド・イングリッシュからなるカトリック教徒」は315万人を占めた(川北稔「二重革命の時代」[村岡健次ら編『イギリス史』3、近現代、山川出版社、1991年、66−7頁])。
具体的には、1495年ボイニングズ法(「アイルランド議会のイギリス国王及び枢密院への従属を規定した」)の改正・撤廃が課題であり、1760年代結成の愛国者党も「国制上のイギリスとの平等」を課題とした。愛国者党指導者のヘンリ・グラタンは、アメリカ独立戦争に基因する経済混乱を「すべてイギリスによる経済規制」と宣伝し、反英気運を高め、1778年にベルファストで義勇軍が創設された。グラタンら愛国者党の合法闘争では「国制上の問題」が解決しないとして、1782年、「アルスター義勇軍会議は軍事力を背景として、ボイニングズ法反対を決議」した。1782年本国で「親アイルランド派の多いロッキンガム(ホイッグ)内閣」が成立し、これに呼応して、グラタンはアイルランド議会で「事実上の独立宣言」をして、「ボイニングズ法は事実上撤廃され」、1801年イングランドのアイルランド併合までアイルランド議会はグラタン議会と呼ばれた(川北稔「二重革命の時代」前掲書67頁)。
1791年、フランス革命の影響で、ユナイテッド・アイリッシュメンは「カトリックの政治的権利」を主張し始め、1798年には蜂起したが、失敗した(川北稔「二重革命の時代」[村岡健次ら編『イギリス史』3、近現代、山川出版社、1991年、68頁])。
連合王国の成立ーアイルランド合同とカトリック解放 ピット政権は、「アイルランドがフランスと結ぶことを恐れ」、「両国の合同」、「カトリック教徒の政治的権利の回復」を認め、1800年に合同法案が両国議会を通過し、1801年施行され、連合王国が成立した(川北稔「二重革命の時代」[村岡健次ら編『イギリス史』3、近現代、山川出版社、1991年、68頁])。
1829年カトリック教徒解放法が成立し、アイルランドでの「カトリック教徒に対する制限や社会的差別」はほぼなくなった(川北稔「二重革命の時代」[村岡健次ら編『イギリス史』3、近現代、山川出版社、1991年、69頁])。
模索の時代 こうして、「1780年から1830年までの期間は、工業化とフランス革命思想という二つの世界史的な力が重なって、改革の必要性は認識され始めたものの、なお明確な脱出口は見つからないような、いわば模索の時代であった」(川北稔「二重革命の時代」前掲書70頁)。
「この時代の政治はそのほとんどがトーリ党によって担われたのだが、リヴァプール内閣時代に決定的な転換があったことでもわかるように、それは伝統的な支配層に属する人間の一人一人が改革の必要性を認識していくプロセスであった」(川北稔「二重革命の時代」前掲書70頁)。
(b) スコットランドの「植民地」支配
スコットランド族長の土地所有 18世紀初頭、スコットランドのハイランドでは、「血の主張」を基礎にした氏族制度が残り、「族長は、氏族の土地を『所有して』いなかったが、『中間借地人』へ土地を譲与」し、「『中間借地人』は、地代を奉公という見返りに土地をさらに転借し」、「その支払いは、家来を維持して食物の不足を償うために行われ、少なくともその一部分は、もてなしのための蓄えとして食料や牛が族長に提供されていた」。しかし、族長は、「ゲール人のハイランド」と「エディンバラにおけるコスモポリタンな社会」という「不安定な二つの世界」に立っていた(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、187頁)。
アーガイル公爵(キャンベル氏族の族長)は、1710年「多くの貨幣地代」を求めて「氏族の土地」を認定し、これによって「中間借地人の地位は侵食され、農場は、最も高額の地代によって貸し出され」、「フランスにいるステュアート王朝の僭称者への支持を増加させながら、スコットランドの古い王家への忠誠義務」が示され、「合同によって沈められてしまったスコットランドの政治的主体性の再主張」がなされ、1745年反乱を導いた。「反乱の失敗とその後の残忍な弾圧のために、氏族のエリートにとっては・・新しい秩序に自らを同化させることを完遂する以外に、選択肢はほとんどない状況であった」。やがて「氏族への忠誠は、地代の追求に取って代わられ」、1760年代以降、大地主は、「広大な牧羊場の建設をはかどらせるために、彼らのハイランドの土地にいる人々を『放逐し』」たり、「借地人や転借人から財産を取り上げて、彼らに移住」などを強制した(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、188頁)。
18世紀末、「大きな農場が創出され」、また、「季節労働の見返りに小区画を与えられていた転借人や小屋住み農民は、産業都市か海外へ移住することを強制され」、「スコットランドの田舎は、イングランドと比べて、陰鬱で人もほとんど住んでいない状態」となった(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、189頁)。
スコットランドの経済 1707年イングランド・スコットランド合同法によって、「二王国間の関税は取り除かれ、スコットランド人には帝国システムの保護の役割が与えられた」が、合同法は、あくまで「イングランドの関心ごとであって、・・(イングランドのために)市場を開放」し、「スコットランド人を戦争費用の支払いに寄与させること」を目論んでいたという懸念があった(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、195頁)。
スコットランド人は、「イングランド人をはるかに凌駕して、ヨーロッパのなかで読み書き能力が最も高い水準にある民の一つ」であり、「独特で柔軟な銀行機構を保持していた」。この銀行機構は、「カネや信用の供給と、18世紀後半におけるスコットランド経済の急速な発展に寄与し」、「帝国の市場への参入機会を得た」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、196頁)。
宗教 「イギリス帝国の四つの民族」の宗教を見ると、@イングランドの国教徒は710年代後半93%、1851年83%と減少しつつも、圧倒的比率を占め(山本通「イングランドの工業化と宗教:再検討」『商経論叢』第50巻第3・4合併号、2015年4月)、Aスコットランドでは、カソリックは少数派であり、「国教会(スコットランド教会)は長老主義」であるが、1843年「スコットランド教会内部の福音主義者の大多数(聖職者の38%、信者の約40%)が離脱して自由教会を結成し」、他方、1848年に「18世紀から分離していた二つの中心的な教団が合体して合同長老教会を結成し、グラスゴーとエディンバラで格別な影響力を持ち、ひときわ都会的で中流階級的な堅固な教派」となり、Bアイルランドでは、1834年においてカトリックは81%、プロテスタント系監督派信徒は11%、長老派は8%であり、1869年に英国国教会の国教制が廃され、Cウェールズでは、英国国教会の国教制が維持されていたが、しだいにプロテスタント系非国教主義(バプティスト派やカルヴァン主義メソジスト派、会衆派)が支配的となり、1914年に国教制廃止が制定された(ジェーン・ガーネット「信仰生活と知的生活」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、275頁])。
A 「産業革命」に対するアイルランド、スコットランド、ウェールズの役割
アイルランドは、@イングランドに「安価な労働力を豊富に提供」し、「マンチェスターをはじめとする産業革命期のランカシャー綿業都市」に「移民の大群が定住」し、A「イングランド側の徹底した重商主義政策のもとにおかれ」、「食料、特に食肉や酪製品とともに、羊毛など工業用原料を提供し、イングランド工業製品の市場」となった(川北稔「工業社会の誕生」[村岡健次ら編『イギリス史』3、近現代、山川出版社、1991年、27−8頁])。
スコットランド、ウェールズは、「政治的にイングランドと統合されて」いたこともあって、「一方的にイングランドの産業革命に貢献させられた」のではなく、各々にも「かなりの工・鉱業が展開」し、とくにスコットランドは、「いわば産業革命のイデオローグとなったアダム・スミス」、「蒸気機関の発明者ワットとその協力者で、キャロン製鉄所の経営者ローバック」などのように、「産業革命の主役となった大立者を多数輩出」した。スコットランドでは、「煙草貿易を通じて商業的な資本も十分に蓄えられ」、「人民の一掃」(ピープルズ・クリアランス)と呼ばれた農地改革で労働力が豊富であった(川北稔「工業社会の誕生」前掲書28頁)。
スコットランドのグラスゴー商人は、「アメリカ独立戦争でヴァージニア、メリーランドとのタバコ貿易を喪失」した事から、「綿工業と亜麻工業」に投資したので、「1780年から1830年にかけては綿工業と亜麻工業が、急速に展開」した。1830年以降、「フォース、クライド両川の河口付近に製鉄業や造船業が発達し、イギリス全体の中でも産業革命の中心地の一つとなった」(川北稔「工業社会の誕生」前掲書28頁)。
ウェールズでは、「スウォンジーなど南部を中心に炭坑業や鉄工業が発達した」(川北稔「工業社会の誕生」前掲書28頁)。
1885年には、スコットランド担当国務大臣が設けられ、「アイルランド担当相(「アイルランド総督の秘書官」chief
secretary)より重要な官職」(コリン・マシュー「公共生活と政治」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、173頁])であった。
B 多様性の統一問題
(a) イギリス的多様性の統一
人種多様性の統一 ロンドンは、「グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国(1801年のアイルランドとの合同によって正式に宣言)並びにイギリス帝国の首都であった」(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、20頁)。
19世紀は「連合の時代」であり、「少なくともイングランドのホイッグ史観からすれば、これをもってブリテン諸島に一つの国家が形成されるという、サクソン人の時代からめざしていた偉業が達成された」のである。ウィリアム・スタッブスは『イングランド国制史』において、「イングランドは、(ドイツに比べても)その血筋や気質に均一性があまり見られないにもかかわらず、極めて統一がとれた形で革新的に成長を遂げていっ」て、「ブリテン諸島の中に様々な要素が入り乱れ、それがうまく統一されていたことが、1300年にもわたって無敵の存在として優位を保つことができた力強さと持続性につながった」とする(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、20−1頁)。
「経済の方は政治より統合されていたため、この後も連合王国の求心力となって、各国での民族的伝統やアイデンティの復活とある程度は相殺される関係となった」(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、21頁)。
イングランド、スコットランド、アイルランドには、@「それぞれに行政府が存在すると同時に、三つの王国にはおのおのに法体系があり」、A「同じ君主のもとにありながら、イングランドでは国教会が、スコットランドでは長老派が主流を占め」、B「ウェストミンスターの議会の中の君主が立法における絶対的な主権を有するという、極めて重大な共通点を除けば」、「連合王国など所詮は部分からなる構成体であった」((コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、21頁)。
アイルランドについては、「1866年にグラッドストンと自由党の多数派とがアイルランドに自治権を与えてはどうかと唱えて以来、論争はますます盛んになった」(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、22頁)。
連合王国についての諸見解 連合王国は、@「ある者にとっては、連合体制をとっていることで、外国勢力からの侵略というより大きな脅威から身を守ることができ」たり、A「スコットランドとアイルランドの地主階級は、ウエストミンスターの議会のおかげで、ある種の社会=立法改革から逃れて」いて、Bアイルランドは過疎化がすすんだが、スコットランドでは「牧羊や狩猟場の開発」がなされ、「農村経済に新しい形態が生じるようにな」り、C「イングランドの地主階級は、イングランド内部でいかなる土地保有形態の改革をも実施させないために、アイルランドの土地問題危機を利用し」、これによって議会は苦労して「アイルランドに最小限の土地改革を一時的に施す」ことをしたりして、各民族内の「支配的なグループにそれぞれ利益をもたらした」(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、22−3頁)。
イングランド 確かに「イングランドが力を握っていたかもしれない」が、「多くの分野において、イングランドは連合王国の他の国々から大きな影響を受けてい」て、@「スコットランドの政治経済学(アダム・スミス)、哲学、文学は19世紀前半の知識人階級の間に一大勢力を築」き、A「スコットランド、アイルランド、ウェールズの歴史観や習慣こそが、第三・四半世紀の頃までには土地保有関係を歴史的・慣習的に理解する際の基盤とな」り、Bさらに、「より規模は小さいものの、工業関係についてもしかり」であるとされる。そして、「より全般的な歴史的相対論(「社会と政治とは一つの国で見られる歴史経験の変化という文脈で理解」すべきという理論)の復活の代表例」は、「スコットランドのタータンや氏族社会(しばしばローランド地方の人々の関心を引いていた)、ウェールズ芸術祭(1819年に復活し、1858年からは毎年開催)、アイルランドのゲーリック連盟(1882年設置。ゲール語の復興をめざす)など」であり、「この三つのすべてが1890年代のケルト文芸復興運動(アイルランドの文芸復興運動)と密接な関係にあった」(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、23−4頁)ともされる。
イングランドでは、「マグナ・カルタ、宗教改革、ガイ・フォークス事件(カトリック教徒の国教会への反撃事件)の収拾、その他一連のプロテスタントによる勝利」は「網の目のように絡み合った文化的伝統」が相互連関しつつ、あらたな国民的祝賀行事が行われ、「最も成功を収めた」のは「常に陸軍よりも『格上の軍隊』」たる海軍称賛に関わるトラファルガー戦勝記念日である(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、26頁)。
スコットランド スコットランド、アイルランド、ウェールズは、各利害・関心が多様なので、「イングランドに共同で対抗」することはなかった(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、27頁)。
スコットランド人(とりわけローランド地方の人々)にとって、「19世紀の連合と帝国とは、計り知れないほどの経済的・社会的・政治的恩恵を彼らに与えてくれるもの」であり、「連合と帝国とは、巨大な文脈においてスコットランド人に発展をもたらし、逆にそれによって利益を生み出すことにも成功を収めていた」。スコットランド人は、@ウェストミンスターの議会、大衆政治の場で「数多くの優れた人物」を生み出し、A「インド軍やインド政庁でめざましい功績を残し」、「その他の植民地(特に、スコットランド国教会の保護下におかれていた、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ニアザランド[現マラウィー])においても、それぞれの政治・行政の分野で・・活躍」し、B専門職階級にも進出した(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、27頁)。
1745年にジャコバイトによる二度目の反乱が起きり、1745年に英国王位請求者のチャールズ・エドワード・ステュアートはフランスからスコットランドに上陸し、ハイランドの氏族やカトリック教徒たちを糾合して、王位簒奪の兵をおこしたが、政府軍は1746年1月にエジンバラを奪還し、4月にジャコバイト軍を征圧した。これ以降は、「イングランドはスコットランドに対する完全なる優位を築き上げて」いたから、全国スコットランド権利擁護協会は「強力な政治勢力にまで発展することはできなかった」(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、27頁)。
19世紀には、「多くのスコットランド人のレターヘッドの住所には『ノース・ブリテン』という言葉が見られ」、「彼らが連合王国と帝国とをよき共同経営者として認めていた」ことを明らかにする(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、27頁)。
アイルランド アイルランドでは、国教会は容認されなかったので、スコットランドと「正反対の現象」となった(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、27頁)。
1829年カトリック教徒解放法、1869年アイルランド国教会廃止によって、「両者の確執は和らげられ」たが、「連合の正統性は期待したほどアイルランドでは受け入れられることはなかった」(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、28頁)。
19世紀、アイルランドの専門職階級は「活躍」したが、1800年にダニエル・オコンネルはアイルランド合同法廃止を提唱し、19世紀半ばに「アイルランド共和主義連盟とフィニアン運動(アメリカに移住アイルランド人が結成したアイルランドの自由を獲得しようとする革命的秘密結社の運動)とが純粋な分離」を叫び始め、選挙に大きな影響を与えた。さらに、1885年以降、アイルランド自治連盟は、「アルスターを除いたアイルランド全土で主導権を確立」し、「連合王国と帝国の枠組みの中に留まりながらも、アイルランドの国内政治についてはアイルランド人に任せるべきだ」と主張し、「ウェストミンスターの二大政党を大混乱に導いた」のである(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、28頁)。
ウェールズ ウェールズでは、「イングランドと別の法体系も行政府もなかったし、様々な宗派の非国教系の司祭たちはすでに国家から特別の位置づけを与えられていた」ので、「スコットランドやアイルランドとは異なって、専門職階級が民族主義を煽るような機能は果たさなかった」し、カムリ・フィド(青年ウェールズ運動)は「あくまでも自由党内部で運動を展開」した(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、28頁)。
(b) イギリス的多様性統一の崩壊
不和の醸成 「『イングランド人』という言葉は、ブリテン本島に住む人々をさす言葉として、イングランド人と一部のスコットランド人の間では通常使われていた」が、「1870年頃からは、それはスコットランド人やウェールズ人にとっては屈辱的な言葉に変わってしま」い、ブリテン島に住んでいないアイルランド人にはブリテン人は「受け入れられない」ものであった(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、29頁)。
陸軍の多様性問題 イギリス海軍は、「ブリテン諸島に見られる民俗性など一切無視して、組織が形成され」たが、イギリス陸軍は、「連隊には、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドそれぞれの軍功や伝統を神聖視する名前がつくられ」、各民族を示す「様々な制服・音楽・軍旗で自らの特色を現し」、「民族的な多様性を「示していただけでなく、それを維持する重要な手段にもなっていた」(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、31頁)。
陸軍では、各民族別に部隊編成した方が戦意鼓舞の効果があったのであろうが、これは各民族の武装を認めた点で独立運動と言う大きなリスクを残すことにもなった。
多様性・多元主義の限界 「ワーテルローの戦い(1815年)からヴィクトリア女王の死去(1901年)に至るまで、連合王国が抱えていた複雑な多様性と文化的多元主義」こそが、「それを生み出した国に世界のなかでの指導的な役割を与える決定打にもなったのである」。「18世紀から19世紀初頭にかけてのこの世紀転換期の時期は、一つの時代から別の時代へと移り変わる際の、停泊地ないし中間休止のような役割を果たし」、「この時期の人々は、永続的なアイデンティティを確立することができなかった」(マーティン・ドーントン「社会と経済生活」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、54−5頁)。
特殊イギリス的な国制のリスク 「連合王国とは、本質的には、便宜と感情とが織り交ざってできた連合体にすぎない」が、「このように全体的な体系が欠如していたことは、弱点どころか『ブリテン』とその帝国とが柔軟で融通の利く国家組織へと拡張できた原動力であり、むしろ強みであった」(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、29頁)とする見解もある。だが、イングランドが弱くて、軍事的に威圧できなかったとも言えるのである。
「自由主義に彩られた帝国を確立していくためには、議会の中の君主という体制は例外的に好都合」であり、「強大だが有権者をきちんと代表している行政府」と「自らの法的な権利をごり押しすることのない立法府」とを結びつける体制であり、こうした「連合王国の複合的な国制は、他のすべての国々とは全く異なるもの」であった。しかし、次の世紀に「帝国という枠組みが突然崩壊」すると、「半体系的でしかない連合が王国の諸民族にとって不都合に感じられる」事になる(コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、30−1頁)。
「国制」の旧弊 「イギリスは、その財力に物を言わせてフランスとの戦い(1793−1815年)に勝利を収め、ナポレオンを打ち負かした」が、「政治制度は旧態依然としたもの」で、「公職は国教徒(イングランド、ウェールズ、アイルランドでは英国国教徒、スコットランドでは長老派信徒)にのみ限定された、プロテスタントの国制が堅持された」。このプロテスタント国制が、「武力や同盟国に軍資金を提供できるだけの強固な経済力によってフランスを打ち破った」から、政府は暫く「国民から人気を得ておこくことができた」し、実業家は「ナポレオンを打ち破った政治制度に敬意を払うようになっ」た。この結果、旧弊(宗教上の差別、都市が除外されるなどの制限選挙)ある国制が維持された(コリン・マシュー「公共生活と政治」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、124頁])。
「フランスとの戦争が終わった時、国民の間では論功行賞として選挙権がより拡大されるのではないかとの期待が高まった」が、「議会はごく限られた富裕者階級のためだけに法律を作るようになってしまった」(コリン・マシュー「公共生活と政治」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、125頁])。
アイルランド問題 以上のリスク・旧弊などが集中的に現れたのが、アイルランド問題であった。
1832年選挙法改正以後、「アイルランドでは、イングランド、スコットランド、ウェールズで見られたような漸次的な統合の動きとは異なり、もっと波乱含みの展開となった」(コリン・マシュー「公共生活と政治」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、139頁])。
1829年カトリック教徒解放法が「アイルランドでの有権者の減少を伴っていたから」、「当初アイルランドでは、ブリテン島に比べても、選挙権が統合を促す効果を発揮することはなかった」。「アイルランド選挙区に割り当てられた105議席のうち常に過半数を制していたのはホイッグの側であ」り、「彼らの多くがダニエル・オコンネル(解放者として知られた)と彼の進める合同廃止運動の支持者であった」が、1850年代、「ブリテンとの連合を解消しようとしたオコンネルのような動きを議会レベルで期待することは」難しくなった(コリン・マシュー「公共生活と政治」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、139頁])。
「フィニアン同盟の名でも知られる、アイルランド共和主義同盟(1858年結成)は、連合王国の正統性を真っ向から否定し」、1867年フィニアンがロンドンの刑務所を襲撃し死傷者100人を出し、以後アイルランド問題が深刻化した。しかも、アイルランド北部では、「プロテスタントたちが、『カトリックによる支配』を恐れ、彼らがせっかく工業で生み出した富が南部の貧民どもに奪われることに脅威を感じていた」(コリン・マシュー「公共生活と政治」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、140−1頁])。
それでも、第一次大戦勃発までは、「独立」ではなく、「自治の獲得の方がずっと現実味」があった(コリン・マシュー「公共生活と政治」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、142頁])。
E 囲い込み
奴隷、植民地が本国以外での悲惨ば出来事だったとすれば、囲い込みは本国内部での悲惨な行為であった。イングランドは、こうした国内外の悲惨行為によって「産業革命」を遂行することができたのである。
囲い込み(エンクロージャー)には、@「耕地整理と恒常的な境界で囲まれた耕地への分割」、A「共同権の排除と私有土地所有権の確立」、B「農場経営者各自が自己の農場でどのような性格の運営をどのように管理するかを自由に決定できるように、共同体的農業を確実に終息させること」が含まれていた(マーク・オウヴァント「農業」[J.ラングトン、R.J.モリス編『イギリス産業革命地図』42頁])。 要するに、囲い込みとは、「従来の共同体的土地利用(開放耕地、共同地などにおける村落共同体規制がその中核をなす」)を廃除し、土地を個別利用にゆだねるため、一定の広さの地所を垣、塀、柵などで囲い込むこと」(林達『産業革命への道』77頁)であり、具体的には、「専一的牧羊業」、「輪栽式多圃農法」、「単一換金作物の栽培」などのため開放耕地・共同地などを小農からとりあげる事である(林達『産業革命への道』79頁)。
開放耕地制とは地条に対する農民利用権は不完全であり、耕圃を単位として村全体が共同農耕を行うものだが、これは、「アングロ・サクソン人によって導入されたといわれる有輪犂」という能率的な農具の働きによってが出現し、「13世紀の中頃から14世紀の中頃にかけて、二圃式農法から三圃式農法への移行をなしたまま久しく存続することとなった」(林達『産業革命への道』84頁)。
@ 16世紀囲い込み
16世紀囲込み 旧封建貴族は「封建的大戦争によって食い尽くされ」、新貴族が「耕地の牧羊場への転化を合言葉」に登場する(マルクス『資本論』第1部、564頁)。つまり、新地主貴族が、羊の飼育にために開放耕地・共同地などの囲い込みに着手し、小農の生活を困難にしたのである。
ハリソンは、「ホリンズヘッド(1520−80年頃)の年代記への前書き」で、「小農民の収奪が国土を荒廃させ」、都市や村落は「牧羊場にするために破壊されて領主の邸宅しか建ってない」とした。これは、「十分の一税の衰微」をもたらしたので、「王(ヘンリー七世)や議会」は、「人口絶滅的な共同地欧奪」を防止しようとし、1489年条例19号で、「20エーカーの土地のついたあらゆる農民家屋の破壊を禁止」(マルクス『資本論』第1部、564−5頁)した。
1525年、ヘンリー8世は、「衰微した農場の再建を命じ、穀作地と牧場地との比率を規定」し、1533年には「幾人かの地主が2万4千頭の羊を所有することを嘆いて、その数を2千頭に制限」し、牧羊場囲込みを抑制しようとした。しかし、「小借地農業者や農民の収奪を防ぐヘンリー7世いらい150年間にわたる立法も、等しく無効であった」(マルクス『資本論』第1部、565頁)。
一方、16世紀、「宗教改革とその結果たる巨大な寺領収奪」によって、「人民大衆の暴力的収奪」は「新たな恐るべき刺激を受けた」。1601年、エリザベス一世は、「救貧法の実施によって、被救恤的窮民を公けに認めることを余儀なくされ」、チャールズ1世は救貧法を「永久的なもの」とした(マルクス『資本論』第1部、565−6頁)。ここに、救貧事業は国家管轄となったのである。
「共同地の暴力的横奪は、たいてい、耕地の牧場化を伴」い、「この過程は個人的暴行として行われ」、「立法は150年にわたり、これと抗争したが、無駄であった」(マルクス『資本論』第1部、569頁)。この時期、議会は、囲い込みに反対したのである。
清教徒革命期の囲い込み解禁 「市民革命によって変革を加えられた土地所有権は、国王の上級所有権のみ」であり、1646年に「後見裁判所の廃止、騎士保有の自由保有への転換によって、国王の上級所有権は廃止され、これによって土地を自由保有に一元化し、私的所有に統一」した。それに対して、「農民の土地保有権は変革の対象とはならず、旧来の慣習的土地保有権(領主裁判所に保有が登記されている謄本保有=コピー・ホールド)は手つかずのまま放置」(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』24頁)された。
しかし、「イギリスの市民革命が農業における近代的諸関係の成立にとって、何らの成果を挙げ得なかった」ということではなく、「囲い込みを禁止・制限していた皇室庁裁判所、請願裁判所等の国王裁判所の廃止」、「領主的土地所有の私的所有への一元化」、「革命政府の基本的な方針である私有財産保護の必然的な結果」で、1656年に囲い込み禁止が全面的に解かれ、「以後、土地生産性の上昇を実現し、共同農業に代わる大規模で効率的な私的農業経営を可能にする条件が整備されることにな」る(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』25頁)。
犠牲者 第一次囲い込みで領主が収奪したのは「農民の共同用益権の存在していた共同地」、「種々の保有権の下にあった農民の保有地」(「農民の自由保有権には殆んど手をつけることができなかったが、慣習保有権ないし謄本保有権を劣弱な任意保有権にかえたり、定期借地権にかえたりして、その農民所有地を収奪」)(林達『産業革命への道』91頁)であった。
市民革命で、「国王の上級領有権は廃止」され、その結果、「領有権は領主直領地を中心に、農民保有権を排除しつつ、近代的所有権に転化する道をみいだした」。こうして、イギリスでは、フランスのように農民保有権の農民所有権化はなく、「領主の地主化と農民の借地農化又はプロレタリア化」が見られ、1660年王政復古から1760年議会囲い込みの一世紀間は「地主化した領主による農民地収奪の進行」がなされた。「イギリスに固有の保有権の劣弱性」を背景に、「穀物法と地租は結合して大農経営の一方的優越性をもたらした」(林達『産業革命への道』92頁)。
ヨーマンリとは「もと40シリングの年収入ある自由保有農層」であり、「絶対王政期には一般に同程度の収入ある保有農や借地農層(謄本保有農民層が典型)を意味する」ようになり、以後「一般にヨーマンリ―とは謄本保有の中農をさすようになった。15世紀は「ヨーマンリの黄金時代」と言われ、「ヨーマンリはこの時代に、農奴から解放されて独立し、その保有権を事実上の所有権に近づけた時」、クロムウェルの鉄騎兵となり、「やがて新型軍の中核を形成して革命のために戦ったが、水平派の没落と共にその歴史的使命を終え」、「没落と消滅の道を歩み始めた」(93頁)のである。ヨーマンは、「1660年から1760年までの一世紀間に、一つの階層としては、・・消滅した」(林達『産業革命への道』92−3頁)。
A 18世紀後半の囲い込み
18世紀後半に囲い込みの特徴が変化した。当初の囲い込みは「村落内の同意、あるいは隣接する荒蕪地の共同放牧地の中からある部分の土地に柵をめぐらし囲い込むといったことによって始まる漸次的な過程」だった(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、185頁)。
しかし、今回の囲い込みは、「たいてい、放牧地を十分に供給できる地域で行われてい」て、「村民が、収穫後に共有地で役畜を飼育する権利を喪失した場所でさえ、彼らには通常、囲い込みはますます議会手続きを頼みにしていた」から、囲い込み過程は「通常、緊張状態をはらむことはなかった」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、185頁)。
やがて、18世紀後半には、「囲い込みは益々議会手続きを頼みにして」、「議会手続きにより、地域社会の重大な要件に逆らった変更を推し進め」ると、「牧草地の供給が不足した状況にあり、収穫後の開放地での放牧が重大な営みであったミッドランドに特にあてはまったから」、「囲い込みが緊張状態を生む原因となる見込みは高くなった」。この囲い込みによって、「さまざまな所有権の破壊を行ない」、「落穂拾いまたは狩猟採集による食物獲得、あるいは共有地で牝牛を飼うことによって女性が家族の収入を補うことは、もはやできなくな」り、「多くの家族は、土地を持たず周期的に失業するような男性労働者の賃金に依存するようになり、また、救貧法による生活支援に頼るようになった」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、185頁)。
さらに、囲い込みに乗じて、「既成の借地権が無効にされ」、これによって「地主は、法外な地代で短期間の借地権を導入することができた」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、185頁)。
こうした囲い込みの結果、「地主は、18世紀後半における価格上昇についての主要な受益者となり、農業産出高のなかで、地主の取り分が増加し」、地主たちは、「慣習的保有や自由保有の小規模な独立自営農民の借地農の没落を伴いながら、法外な地代による大規模借地農場を創出して自らの地所を再整理した」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、185頁)。
「大土地所有の発展」は、「独立自営農民の借地農や相続財産の売却を好んで行う相続者から提供された小規模な土地を借用切れ切れに取得した結果によるもの」であり、「一般的に、より大きな(地所の)所有者は、もっと進んで土地を借用できたし、土地や抵当の活発な市場で、彼らは漸進的な蓄積過程のなかで小規模な不動産を買い上げることができた」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、186頁)。
これに対して、ウィリアム・コベット(ジャーナリスト、父は自作農)は、「イングランドがまだ富裕な独立自営農民の借地農と満ち足りた小屋住み農の国土であった黄金時代に回帰すること」を願い、「19世紀初めの政治的、社会的機構を叩くために、いくぶん農業社会内部の変化の力を無視して、理想化された過去のイメージを構築」し、「独立自営農民の借地農は、高度に商業化した存在、すなわち資本主義的経済を創出する責務を自ら負った」と見たのである(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、186頁)。
地主の私的囲い込み 17世紀末期から18世紀初頭、「1692−1715年の戦時の課税が小地主に重くのしかか」った事、「18世紀初頭の農産物価格の大幅な低落が小規模自作農の立場を不利にし」た事から、かれら小地主の土地が市場に放出され、「土地取引が極めて活発」となり、「ことに大地主への土地移動が著しかった」(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』29頁)。
そして、1720年以後、「利子率の大幅な低下と年金・公債利回りの低落」で、大地主は「土地への投資や農業改良に関心」を示し、「私的な囲い込み」を推進した。さらに、「厳格継承的不動産処分」(男子直系卑属の血統に土地継承を限定する処分)という法慣習によって、「所領の細分化・分散を免れ」て、18世紀前半に三分割制度(地主ー借地農業経営者=農業資本家ー農業労働者)が「着実に進展」した(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』30頁)。
17世紀後半から18世紀前半、「従来からあった穀物生産と牧畜の有機的な関係をさらに一段と進めた」「新しい混合農法」が普及して、「土地生産性の上昇」に貢献した(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』32頁)。
囲い込みの手続き 18世紀後半に囲い込みの特徴が変化した。当初の囲い込みは「村落内の同意、あるいは隣接する荒蕪地の共同放牧地の中からある部分の土地に柵をめぐらし囲い込むといったことによって始まる漸次的な過程」だった(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、185頁)。
囲い込みは、「たいてい、放牧地を十分に供給できる地域で行われてい」て、「村民が、収穫後に共有地で役畜を飼育する権利を喪失した場所でさえ、彼らには通常、囲い込みはますます議会手続きを頼みにしていた」から、囲い込み過程は「通常、緊張状態をはらむことはなかった」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、185頁)。
しかし、18世紀後半には、「囲い込みは益々議会手続きを頼みにして」、「議会手続きにより、地域社会の重大な要件に逆らった変更を推し進め」ると、「牧草地の供給が不足した状況にあり、収穫後の開放地での放牧が重大な営みであったミッドランドに特にあてはまったから」、「囲い込みが緊張状態を生む原因となる見込みは高くなった」。この囲い込みによって、「さまざまな所有権の破壊を行ない」、「落穂拾いまたは狩猟採集による食物獲得、あるいは共有地で牝牛を飼うことによって女性が家族の収入を補うことは、もはやできなくな」り、「多くの家族は、土地を持たず周期的に失業するような男性労働者の賃金に依存するようになり、また、救貧法による生活支援に頼るようになった」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、185頁)。
議会囲い込み イギリス農業は、「農業革命により一挙に資本主義的農業経営へと移行したわけではな」く、地主・借地農・農業労働者という三分割制が「まったき意味」で成立したのではなかった(武居良明「世界の工場」期の経済・社会[米川伸一編『概説イギリス経済史』98頁)。
農業生産力増大のためには、「技術革新、技術改良」と同時に「耕地の拡大並びに統合・整備を通じて耕地の集約的利用」も必要であった(武居良明「世界の工場」期の経済・社会[米川伸一編『概説イギリス経済史』98頁)。
17世紀、オランダから排水技術・栽培牧草を導入し「短期牧草地たる『レイ』制度に基づく新穀草式農業が可能」となり、さらに、「大株の導入は、この線に沿った技術革新を一層促進し、いわゆるノーフォーク農法を成立せしめ」たが、「これらの革新的技術とても、伝統的な開放耕地制のもとでは、生産力増大に一定の制約があった」ので、ここに、1760年頃から局地的に、1801年以降は議会法令で、囲い込みが推進された(武居良明「世界の工場」期の経済・社会[米川伸一編『概説イギリス経済史』98−9頁)。
「この囲い込みの推進主体は大規模地主であり、もっぱら彼ら自身の意思により、小土地所有者並びに借地農民(大規模借地農に限り事前に相談を受ける事があった)の利益を無視しておこなわれた」(武居良明「世界の工場」期の経済・社会[米川伸一編『概説イギリス経済史』99頁)。
対象地域 「議会囲い込みの対象地域は、開放耕地が広く残存する穀作地帯、すなわちヨークシャー、リンカシャー並びにノーフォーク沿岸地方を底辺とし、ドアセットを頂点とする逆三角形内の地方に限定され」、「1760年から1815年にかけて議会による囲い込み裁定書の効力が及んだ地域は、700万エーカーに達し」、「囲い込みの結果、農場の面積は巨大化し、反面、小借地農の消滅により借地農民数は減少」し、「主として週賃金で雇用される農業労働者」が登場した(武居良明「世界の工場」期の経済・社会[米川伸一編『概説イギリス経済史』99頁)。
古くから「18世紀末の議会囲い込みと工業変化」との関係が指摘されてきたが、「議会囲い込みがもっていたきわめて特異な性質と、それが起こったタイミングとを勘案するとき、この囲い込みがもたらした影響を細心に評価」する事が必要だとする(パット・ハドソン『産業革命』104頁)。
「1750年以降のほぼ百年間に残存していた開放耕地領域は、どうやらすべてが囲い込まれ」、「作物・家畜・農業技術を律していた様々な村の掟は、農場経営のために個々の農業者や地主によって廃止され」、「いまや、所有権は議会により排外的な利用権として承認され、共同地や共同利用は劇的に衰退することになった」(パット・ハドソン『産業革命』104頁)。
議会囲い込みには、@1760年代末ー1770年代に「耕地から牧草地への転換」のために「ミッドランズに集中的に残存していた開放耕地地帯で進行」し、「農村過剰労働を著しく増大」し、Aフランス革命戦争(1793−1801年)・ナポレオン戦争期(1803−15年)び「低地地帯に残存する荒蕪地」、「高地の共同地・荒蕪地、沼沢地、荒野、泥炭地など、多くの限界地[不毛地]の開墾をもたらし」、「二つのピーク」があった。チャップマンは、「議会囲い込みで壊滅した開放ないし共同地」は725万ー735万エーカーと算定し、1790年以降は戦時インフレで農産物価格や地代が騰貴したので、「圧倒的に開墾を目的」とするものとなった(パット・ハドソン『産業革命』104−5頁)。
「小区画はたいてい余りに小さすぎ、放牧・狩猟・落ち穂ひろいの慣習的利用権」が不可欠であったので、「小区画は囲い込むには不釣り合いに高くついて、重い負担を伴ったから」、「多くの小土地所有者は、囲い込み時かその直後に(自分の所有地を)競売に付した」(パット・ハドソン『産業革命』106頁)。
18、9世紀の第二次囲い込みは、「穀作のための囲い込み」、「地主の囲い込み」、「時の政府(ハノ-ヴァ朝立憲主義=初期市民国家)の支持の下に、議会の立法を通して促進された議会囲い込み」であった(林達『産業革命への道』78頁)。第二次囲い込みでは耕地4、464、189エーカー(全土の13,6%)、全土地650万エーカー(全土の20%)となり、イギリスはウイッグ革命時(1688年)には「共同地と共同耕地の国」となり、選挙法改革法案時(1832)には「個人主義農業と大囲い込み農場の国」(ハモンド)となった(林達『産業革命への道』78頁)。
議会エンクロージャーがあまり行われなかった地方では、開放耕地や共同地の経験がなかったと考えてはならない」のであり、場所によっては、「議会エンクロージャーも時代より早くにエンクロージャーが行われてしまった」。議会エンクロージャーは「約100年間続行し、1850年になると、実質的にはほとんど全耕地が囲い込まれ」、「開放耕地は消滅し、私有土地所有権が確立し、農場の管理は個々の農場経営者なり地主なりの手に委ねられたわけである」(マーク・オウヴァント「農業」[J.ラングトン、R.J.モリス編『イギリス産業革命地図』42頁])。
「エンクロージャー以前の村民の中には、土地は所有せずとも一定の領域に共同権を保有する者がい」て、「そのような者に対しては、多くの場合に共同権の代わりに小面積の分割貸与地が割りあてられ」、故に「分割貸与地の分布は、開放耕地のエンクロージャの分布に密接に関連している」(マーク・オウヴァント「農業」[J.ラングトン、R.J.モリス編『イギリス産業革命地図』42頁])。
盗奪行為 ヨーマンは、17世紀にはまだ「借地農業者階級よりも多数」であったが、1750年頃には消滅し、18世紀には「農耕民の共同地の最後の痕跡もなくなった」(マルクス『資本論』第1部、567頁)。
名誉革命は、「オレンジ公ウィリアム3世とともに、地主的および資本家的貨殖家をも支配者たらしめ」、彼らは、「国有地盗奪を大規模に行な」い、「贈与されたり、二束三文で売られたり、また、直轄地奪によって私領地に併合され」た。こうした「詐欺的に所得された国有地」は「教会からの盗奪地」と共に「イギリスの少数支配貴族の今日の領地の基礎」となった(マルクス『資本論』第1部、568頁)。
18世紀には、「法律そのものが、今や人民共有地の盗奪の道具にな」り、こうした法律的盗奪は「議会的形態」を持ち、「共同地の囲込み法案」として、「地主が人民共有地を私有地として自分自身に付与」するものとなる(マルクス『資本論』第1部、569頁)。
この「国有地の盗奪」と「組織的に行なわれた共同地の窃盗」は、18世紀に「資本農場」「商人農場」とよばれた「大借地農場」を膨張させ、「農村民を工業のためのプロタリアートとして遊離させることを助けた」(マルクス『資本論』第1部、569頁)。
「寺領の掠奪や、国有地の詐欺的譲渡や、共同地の盗奪や、無遠慮なテロリズムをもって行われた封建的及び氏族的所有の近代的所有への横奪的転化」などは、「いずれも、本源的、本源的蓄積の牧歌的方法」であり、「これらは、資本制的農業のための場面を征服し、土地を資本に合体させ、都市産業のためにその必要とする無一物なプロレタリアートの供給を創造した」(マルクス『資本論』第1部、576頁)。
囲い込みの進展 18、9世紀議会囲い込み法が増加し、@「最初のピークは1760−70年代」で、凶作によって穀価が急騰し囲い込みを刺激し、「イギリスが穀物輸出国ではなくなった時期」で1773年穀物法修正で「外国穀物の保税倉庫を設置し、穀価の急騰を妨げる措置」をとり、A「第二のピークは1800−10年(1810年代853法案)にあ」り、「対仏戦争及びナポレオンの大陸封鎖による穀物輸入の杜絶と不作の連続による穀価の上昇」が見られ、「囲い込みによる穀物の増産は国防的任務」となった(林達『産業革命への道』89−90頁)。
囲い込み進展は、「旧来の伝統的な開放耕地制下の三圃式農法の不生産性を打倒し、農業生産力を飛躍的に増大させ」、「産業化によって急速に増加する商工業人口を養い、また、フランスとの世界制覇をかけた戦争をたたかい抜く力」を与え、「イギリスにおける産業革命の前提条件」となった(90頁)。
地主の利益 囲い込みに乗じて、「既成の借地権が無効にされ」、これによって「地主は、法外な地代で短期間の借地権を導入することができた」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、185頁)。
こうした囲い込みの結果、「地主は、18世紀後半における価格上昇についての主要な受益者となり、農業産出高のなかで、地主の取り分が増加し」、地主たちは、「慣習的保有や自由保有の小規模な独立自営農民の借地農の没落を伴いながら、法外な地代による大規模借地農場を創出して自らの地所を再整理した」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、185頁)。
「大土地所有の発展」は、「独立自営農民の借地農や相続財産の売却を好んで行う相続者から提供された小規模な土地を借用切れ切れに取得した結果によるもの」であり、「一般的に、より大きな(地所の)所有者は、もっと進んで土地を借用できたし、土地や抵当の活発な市場で、彼らは漸進的な蓄積過程のなかで小規模な不動産を買い上げることができた」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、186頁)。
これに対して、ウィリアム・コベット(ジャーナリスト、父は自作農)は、「イングランドがまだ富裕な独立自営農民の借地農と満ち足りた小屋住み農の国土であった黄金時代に回帰すること」を願い、「19世紀初めの政治的、社会的機構を叩くために、いくぶん農業社会内部の変化の力を無視して、理想化された過去のイメージを構築」し、「独立自営農民の借地農は、高度に商業化した存在、すなわち資本主義的経済を創出する責務を自ら負った」と見たのである(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、186頁)。
エンクロージャーと非農業生産 圀方氏は、@「従来のイギリス農業革命に関する研究ではどのようにして食糧供給が実現しえたのか,という観点からの検討が不充分であることは明確になった」とし、A「今や通説となっている,ノーフォク農法の普及だとかカブの栽培だとかによって穀物生産量が増大したという主張も,再検討の余地がある」とし、B「ノーフォクのFleggだとかノーフォクからサフォクにかけて広がるCentral
Claylandsのようなもともと土壌が肥沃な地域では、ノーフォク農法を厳格に実行すると、むしろ逆効果になる」ように「従来,われわれは,土壌の肥沃度を増せば穀物の生産増大に帰結すると単純に考えてきた」事は通用しない場合がある(國方敬司「イギリス農業革命研究の陥穽」)。
圀方氏は、通常,耕地面積拡大は「開墾・干拓(reclamation)とエンクロウジァ(enclosure)によって実現されたもの」と考えられているが、「中世から近世にかけて穀物生産の中心地帯であったミッドランズでは、むしろ18世紀から19世紀にかけてのエンクロウジァによって、穀作から畜産や酪農へと大転換した」り、「カントリハウス(country house) やパーク(park) の拡張(あるいは創設)」、猟場建設或いは植林がなされたように「クロウジァは必ずしも耕作地の拡大を意味しない」(國方敬司「イギリス農業革命研究の陥穽」)とする。
圀方氏は、@「農業上の利益からというものはな」く、「土地を獲得したり,かれらの所領やステイタスを向上させることを欲し」たり、「住宅建設や鉱業からの所得を増大させ」ようとして、「スタフォドシァにあるCannock Chaseという広大なheathlandのうち、合計で18000エイカにのぼる共同地・荒蕪地が1773年から1887年にかけて15件の議会エンクロウジァによって囲い込まれた」事、A「北部や西部でのエンクロウジァ」でも「必ずしも農業上の利益を得るために推進されていたわけではなかった」、B「ミッドランズにおけると同様、北部や西部でも,エンクロウジァは狩猟と緊密な関係をもっていた」(國方敬司「イギリス農業革命研究の陥穽」)とする。
圀方氏は、「開墾・干拓やエンクロウジァが必ずしも穀物生産に寄与しなかった」が、「リンカンシァやケンブリジシァの沼沢地(fenland)、あるいはイースト?アングリアの重粘土地帯」では、19世紀には畜産経営から「イギリス有数の穀物生産地帯に変身」した。さらに、圀方氏は、「穀物栽培地域がミッドランズからイースト?アングリアに集中するようになった」という「大転換こそがイギリス農業革命の原因でもあり,成果でもある」(國方敬司「イギリス農業革命研究の陥穽」)とする。
B 囲い込みの犠牲
犠牲 こうして、「囲い込みそれ自体と労働生産性の増大との関係については議論の余地があるけれども、囲い込みが、土地市場における取引量の増大と、貧しい階級の側での土地保有の合理化を伴」い、小土地保有者・小屋住農民・居座り農民が「土地に基づいて生活すること」は困難となり、さらに「共同地の喪失により、とりわけ婦人や少年・子供の仕事と考えられていた仕事は、その多くが奪われ」、「不完全就業の婦人・少年労働者からなるプールが生み出された」(パット・ハドソン『産業革命』106頁)。
「多くのエンクロージャーはいわゆる『合意によって』行なわれ、その場合には村民たち自身の間で彼らの土地の一部を囲い込むことに意見が一致したこともあり得たし、あるいは地主がそうするのに不本意ながら黙従することもあった」が、1750年代以降、イングランドとウェイルズでは、「開放耕地といわゆる『荒蕪地』の囲い込みが民間の特定事項に関連する議会の法令(private
Act of Parliament)という仕組みによって行われた」(マーク・オウヴァント「農業」[J.ラングトン、R.J.モリス編『イギリス産業革命地図』42頁])。
囲い込みの農民犠牲 第二次囲い込み運動は、「ヨーマン没落の土地の上に、保有権の無効化の上に、従って、社会階層としてはすでに全く無力化したところの農民の無抵抗の上に、めざましい展開をとげた」。「ヨーマンは囲い込みによって消滅したのではなく、囲い込みはヨーマンリの消滅を前提にして進行した」(林達『産業革命への道』93頁)のである。
第二次囲い込み運動の社会的影響は、?「残存せる謄本保有農の追放」がなされ、「自由保有農の処分」(地主が自由保有農の土地を買い取るが、「一つの村なり教区なり荘園なりの囲い込みに当たっては、そこの土地面積[土地価格]の2/3ないし3/4の所有者が賛成すればよかった」)がなされ、「ヨーマンの掃蕩」がなされた事、?第一次囲い込みで「無産者いわゆるプロレタリア、又は労働者が発生した」が、「囲い込みが部分的であり、共同体的要素が多分に残存し」、「このプロレタリアはまだ純粋のものではなかった」が、第二次囲い込みで「共同地も囲い込まれ」、生計補充手段が失われ、「逃げ場」もなくなり、不純プロを掃蕩し「完全プロレタリア化」を推進した事である(林達『産業革命への道』94−6頁)。
囲い込みによる農業労働者悪化 「元来、イギリスのうそんには、年期契約に基づく農場奉公人がい」て、「彼らは借地農民によって雇用され、両者はパターナリスティックな関係にあ」り、「収入は少なかったが、雇主の自宅に住み込むなどして定期的に雇用され」たが、囲い込み後には、「農業労働者は、週賃金、日給、出来高給と、雇主たる借地農民の好むままの賃金形態で就労」を余儀なくされ、「苛烈な仕打ち」が加えられた(99ー100頁)。1823年主従法は、ほとんど工業には適用されず、「借地農の利益を保護しようとの地主的立法」であり、「当時の議会の地主的性格を示」している(武居良明「世界の工場」期の経済・社会[米川伸一編『概説イギリス経済史』100頁)。
19世紀以降のイギリスは、「『世界の工場』とは呼ばれたものの、依然として農業的社会」であり、「全就業人口の4分の1」(繊維産業就業者の3倍)が農業従事者であり、1880年代農業大不況期まで、4000人の大地主(全耕地面積の7分4を所有、25万人の借地農に貸付)を頂点とする地主が支配する社会だった(武居良明「世界の工場」期の経済・社会[米川伸一編『概説イギリス経済史』100頁)。
C 18世紀後半以降の農業発展
土地・労働生産性の上昇 イギリスでは、18世紀後半以降、第二次農業革命と呼ばれるように、「急激な変革というよりも寧ろ比較的緩慢な連続的な過程の積み重ね」として、「工業化と相前後して、農業生産性の上昇、幾つかの注目すべき技術革新、土地制度の変革が進行」し、「18世紀後半のゆるやかな変化、1790年代初頭から1815年の戦時経済下の急激な変化、続く農業不況、19世紀30年代後半以降に始まるハイ・ファーミングと、世紀中葉のイギリス農業の『黄金時代』」などが続いた(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』38−9頁)。
E.L.ジョーンズ試算によれば、@「農業の総産出量の増加率は、1600−1700年の1世紀間に25−36%の範囲内にあ」り、1700−1800年には「総産出量の増加率は61%」と、倍増し、A農地は17世紀末から1800年前後に5%増加しているから、「この間、土地生産性のかなりの上昇(推定44%増加)があった」(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』39ー40頁)。
P.ディーン推計によれば、18世紀の農業人口増加率は8.5%となるから、61%の総産出量増加には大幅な労働生産性増加があり、「18世紀の労働生産性は、土地のそれを上回手って47%の上昇を達成」したとする(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』40頁)。
ハイ・ファーミングへの道 「18世紀後半以降のイギリスの農業発展の特徴は、漸進的な過程の積み重ねであった」(45頁)。>
18世紀中期以降、穀物価格は50−70%上昇し、これが「世紀中葉から始まった人口の急増、非農業部門の人口比の増加」をもたらした(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』45頁)。
農産物価格の上昇で、穀物輸出は、「70年代に急激に減少」し、「イギリスは穀物の輸入国に転じ」、「共同耕地ではなく共同放牧地、荒蕪地に関する囲い込み法案」は増加し、1790年代までに「18世紀前半の約6倍の規模」の囲い込みがなされ、「1793−1815年のナポレオン戦争中には、それに先立つ時期の二倍の規模」の囲い込みがばされたた(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』45−6頁)。
「18世紀後半に既に穀物の輸入国に転じていたイギリスは、戦時における穀物輸入に対する障害とこの間の人口の急増、需要拡大がもたらした穀物価格の未曾有の高騰を経験」し、「この20年のうち、1795−1800年、1808−12年の収穫は極めて低調で、このことが農産物価格の急騰にさらに拍車をかけることになった」(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』47−9頁)。
この時期、「労働集約的な作物の導入を基礎とする」新農法・新混合農業とともに、囲い込みも急増し、囲い込みには「排水設備、農道、新しい農場の建設」などを必要としたから、「共同放牧地・荒蕪地等から新しい囲い込み農場が作られるような場合には、一層農村における雇用を増加させた」(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』49頁)。
ナポレオン戦後の農業不況 「ウォータールーにおけるナポレオンの敗北以前に始まっていた農産物価格の急落、帰還兵の増加と労働市場への参入、軍需産業からの労働力の解放という1823年以後の4半世紀間のイギリス農業を取り巻く新しい事態の展開は、地主と借地農業経営者、農業労働者に、それ以前とは全く異なった対応を強いることになった」。借地農業者の「苦境」は明らかで、「この時期に各地に・・『農業保護協会』」が作られた(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』49頁)。
1864年穀物法撤廃でイギリス農業は「外国との競争」にさらされ、「1840年代後半以降、穀物輸入は増加し」たが、「1840年代以降、排水技術の向上と低利の政府融資によって、中部イングランドの重粘土質土壌地を中心に、排水設備への投資が増加し、新農法へのシフトが全体として一段と進んだことが否定できない」(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』50頁)。
さらに、「世紀中葉以降、農業機械化への傾向が次第に強まり、農業機械への投資が増加し、それを基礎としてイギリス農業は『黄金時代』を迎え」、「『黄金時代』のイギリス農業は、対仏戦期の2.5倍の生産性の伸びを達成している」た(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』50頁)。
こうして、イギリス農業は、穀物法撤廃以後も、「最初の工業国家」として成熟しつつあった「ヴィクトリア朝の繁栄の一翼を担う地位を享受していた」(安元稔「工業化以前の農村経済」[米川伸一編『概説イギリス経済史』50頁)。
大地主の投資 地主は、「自らの地所がより大きく効率的な農場となることを認めながら、彼らの地代収入のいくらかについては土地を投資し、また別のいくらかについては美術収集、庭園、家屋に投資していた」ので、「食物の供給は増加し、人々への福祉は破綻しなかった」のである(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、186−7頁)。
しかし、地主は、ナポレオン戦争終戦時、「食料価格が下落しはじめた際、減少した地代から以前の借金に対する利子支払いを行うはめになるかもしれないということを恐れて」、「すぐに不平を訴えた」のである。価格下落は、「農業や巨大な人口を養うその働きについて深刻な結果をもたらしたかもしれない」が、「食料価格の下落の軽減を図」ろうとして、「消費者を犠牲にしながら、大地主が特別な弁明を行な」い、「1840年代に至るまでブリテンの政策を左右」した(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、187頁)。
独立自営農民 独立自営農民については、@「土地の自由保有権」は、「長期間あるいは数世代の定期借地(保有)」、「荘園文書の謄本(保有)」或いは「慣習(保有)」と、「多様な形態」をとり、A「年間の地代は低く、保有者は折々、例えば新たな生涯の期間または数年間の期間について借地権を延長」し、B「或いは、新たな保有者が土地を保有した際に、(地代)より大きな『負担金』を支払った」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、184頁)りした。
18世紀初め、@地代は下がったので、「地主は、短期借地を迫る動機をほとんど持」たず、A「慣習上の保有に対する法律上の異議申し立ては、多分に高額であり不確かなものであ」り、Bゆえに、「地主は、既成の借地が期限切れとなったり、より高い地代による短期借地が導入される前に、控えめな年々の地代をあてにしたり、定期的な税負担を差し控えることを強いられていた」ようだ。ここに、借地農の独立自営農民は、農業利益が「高い地代として地主のものになるというよりも、収益として自分のものになるということに気づき、自らの土地を改良し産出高を上げ」ようとしたのである。一方、地主は、「自由土地保有権を謄本保有や慣習での保有者に売り渡すという最も簡単な選択肢を求めた」かもしれない(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、184頁)。
さらに、こうした独立自営農民の借地農は、「商業取引向きで、おおいに市場優先の姿勢」をとり、中には「成功した借地農が近隣の土地を買い占め」たりして、「農村社会は分権化が進み始めた」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、184頁)。
しかし、ヨーマンの上昇は大地主に阻まれた。「18世紀末までに、「農業のパターンは変化し」、「農業の主導権は大地主の側に移っていった」。増加人口の圧力の結果として起こった価格や地代の上昇によって、「地主にとって、既存の保有条件を再考したり、契約期間の期限の終了や長期借地の終了時の『負担金』をやめる誘因が大きくな」り、「長期借地は短期借地」にして、ここに、「地主が、価格上昇の機会に乗じて、完全な市場向けに急に地代を上げること、あるいは地代を『搾り取る』ことが可能となった」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、184−5頁)。
農業特産化 18世紀、「農業地域は、そこで最善となる活動に集中するようになった」結果、@「ミッドランドの(じめじめした)重粘土質の土壌は草地に転換され」、A丘陵地帯(イングランド南東部)やイースト・アングリア(イングランド東部)の軽いチョークまたは砂状土壌地は、土壌に施肥する羊の群れの飼育を結び付けて、穀物栽培に用いられた」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、193頁)。
農業の展開 「工夫と勤勉な働きによって、農業は、少なくともブリテンにおいて、福祉の深刻な崩壊を引き起こすことなく、ブリテンの人口を養う食料を供給することができた」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、220頁)。ナポレオン戦争後、「ブリテンの経済は生産と人口というかつての壁を突き抜けて、農村社会から都市社会へと大きな構造的変化を経験し」、「農業世界は、大貴族地主の支配力とともにますます分極化し、ロンドンのシティの金融利害の力は、あちこちに利害関係をもたらすようにな」りつつも、ブリテンは「同時に、商業的な文明や社会性という信用の文化を発展させていった」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、220頁)。
「農業が発展」し、「消費生活の拡大」によって、19世紀後半まで、依然として、「立法も行政も、司法も軍事も、あいかわらず地主の貴族・ジェントリを中核とする上流ジェントルマン階級の手中に握られていた」(はじめに[村岡健次ら編『イギリス史』3、近現代、山川出版社、1991年、A頁])。
D 農業生産性
小麦生産性 ウィンチェスター・カレッジの1クォーター当たり小麦価格は、1700年32.6シリング、1750年27.6シリングであったが、1790年代までに「ブリテンは、穀物の輸入」国となり、1800年(小麦輸入額は124万クォーター)148.5シリングに上昇した。この人口増加による食糧自給の失敗に、「マルサスの憂鬱の背景」があった。しかし、「手頃な価格での食料供給は、工業化前の社会すべてにおいて、社会的・政治的秩序を保つうえで重要だった」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、179−180頁)。
しかし、小麦価格騰貴で小麦生産増加し、「食料価格は、1815年にフランスとの戦争が終結した際に下落し始め」、「福祉について深刻な崩壊は避けられ」、マルサス予想は「ブリテンにおいて外れることになった」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、180頁)。
即ち、@「イングランド東部の沼沢地は、17世紀以降に干拓され」、「漁業、鳥猟、葦刈り取りは、高い産出高を伴う耕地向きの農作物に取って代わられ」、Aダートムーア(イングランド南西部)やペナン山脈(イングランド北部とスコットランドの境界からイングランド中部まで南北に連なる)の辺境部分において、森林は取り除かれ、土地は高知へと転換され」、B羊、牛は「土地へ肥やしをもたらし」、C「クローバーのような窒素固定力のある作物は、穀物の算出を増大させることを手助けし」、D「18世紀の中頃以降、ジャガイモが導入され、それは、同じ播種面積での小麦と比べて約二倍のカロリ−を生み出し」、E「借地農は種の選別により多くの配慮と注意を払うようになり、また、作物によりよい機会を与えるよう耕地をならしたり除草したりしながら、土壌を注意深く準備することへ時間を割き」、F「飼育者も家畜を改良し」「体重を得て、より早く市場に到達するようにな」り、この結果、「イングランドにおける農業算出の増加の一部分」は、「低集約から高集約の土地利用へと変化が起こった」のである(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、180−1頁)。
かつては、「人口圧に直面」すると、「借地農が、人々を養うために耕作可能地での農耕に転換して、家畜数を減少させ」ていたが、「18世紀には新たな輪作によってより多くの家畜を育てることができた」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、181頁)。
農業の労働生産性の向上 農業従事者100人で支えられる人数は、イングランドでは1700年に182人、1800年には276人となったが、フランスでは1700人158人、1800年170にでしかなかった(181頁)。
労働生産性においてイギリスがフランスを凌駕した理由は、@穀物収穫高の上昇で、「短い柄の鎌」から「長柄の大鎌」に代わり、「穀物の損耗の代価として、労働生産性を上昇させ」、A農業労働者の耕地面積は18世紀から19世紀に3倍に増加し、高率の利益を得るようになり、B「商業化された文化やより活発な市場への大きな反応」によって、イングランドでは、「追加される労働者の生産性が低くても、小作農民は・・農場で家族を養い続け」たフランスとは異なり、借地農は救貧法に支えられる貧民の需要に後押しされ「限界生産性が落ち始めるや否や、(市場に対応して)農業労働者を解雇(して労働生産性を上昇させる)することがより一般的にな」(ジョアンナ・イニス「多様な社会を統治する」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、184頁)った。
「土地や労働の生産性の向上」は、「大地主の所有する土地の割合は上昇し、小規模な独立自営農民形態の割合は減少」するという「イングランド農業の制度的・社会的構造における大きな変化と関係していた」(184頁)。
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